突然ですが、異世界にいきなり飛ばされたら、あなたは何をしますか?
世界を救う?世界を滅ぼす?ヒロインと結ばれる?どれも魅力的ですが、エンジニアないしプログラマーであるあなたにはもっと他にやることがあるはずです。
それは……そう、コンピューターを作ることです。
あなたが異世界転生して最初にするべきことは、蒸気機関を作ることなのです。
SunPro代表の博多市(@hakatashi)です。
近年、といっても最近十年程度のことですが、異世界ものと呼ばれる小説のジャンルが興隆を見せています。
「異世界もの」と呼ばれるジャンルの小説には、物語の進行に一定のパターンが存在します。即ち、現実世界とは異なる場所に存在する異世界の存在を仮定し、主人公がそこに転移、もしくは転生することによって物語が導入され、主人公のまったく新しい人生が新しい仲間とともに始まる……というものです。このジャンルの小説は、主に「小説家になろう」という小説投稿サイトで育まれたことからなろう系小説という名称も広く普及しており、とりわけ中高生から二十代、三十代までの若者に遍く愛され、出版化作品としても一大ジャンルを築いた現代のポピュラーカルチャーの一つです。
異世界ものの歴史は意外と古く、例えばブックオフが制作した「異世界召喚・転移・転生ファンタジーライトノベル年表*1」においては、異世界ものの原点として、イザナギが黄泉の国を訪れる『古事記』や、浦島太郎の原型である浦嶋子が記述されている『日本書紀』を紹介していたりします。そこまで古くはなくとも、ある種異世界ものの典型ともいえる『ゼロの使い魔』が2004年、さらに遡って初期ライトノベルで人気を博した『異次元騎士カズマシリーズ』が1988年と、遡ろうと思えばいくらでも遡れてしまうのがこのジャンルの特徴です。
さて、そんな異世界ものですが、筆者としては一つ不満点があります。それは、現代の必須アイテムでありプログラマーの武器であるところの、コンピューターがほとんど登場しないことです。
もちろん、物語の中の一要素としてコンピューターが登場する作品は数多く存在します。例えば、元の世界から持ち込んだスマートフォンが物語の重要アイテムとして登場する『異世界はスマートフォンとともに。』や、ゲーム会社で働くプログラマーが主人公の『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』など、著名なものでもいくつかの作品が挙げられます。しかし、どれもコンピューターやプログラミングを物語の主体に置いているとは言い難く、どちらかというと、すでに存在するコンピューターをチート的に利用して物語に彩りを与えているに過ぎません。
このように異世界にコンピューターが現れない理由は簡単で、これらの作品に登場する異世界のほとんどが、地球で言うところの「中世ヨーロッパ」をベースにした世界だからです。現代世界から異世界に転移した主人公が忌憚なく活躍するためか、はたまた魔法や魔術が登場するファンタジーの設定と違和感なく調和させるためか、「異世界」の文明水準は総じて低く、奴隷制度・石造建築・封建社会といった中世風の設定が多く見られます。このような世界観においてはコンピューターどころか電気すら発見されていない可能性が高く、ゆえに、プログラミングやエンジニアリングの登場する余地はない……というのが一般的な見解でしょう。
しかし、考えてもみてください。
この記事の読者であるあなた――多くがなんらかのプログラマーかエンジニアであることを想定しています――が、突然異世界に転生したと仮定します*2。そして着の身着のままでコンピューターどころか電気もない不毛の大地に立たされ、プログラミングのできない窮地に立たされたとします。あなたのするべきことは何でしょうか?
[*2] 転移は何らかのきっかけがないと難しいですが、転生は多くの場合トラックに轢かれて死亡すればいいだけなので簡単です。誰か別の人をかばいながらだとなお良いでしょう。
そう、コンピューターを作ることです。
異世界だろうとなんだろうと関係ありません。我々がするべきことは常にエンジニアリングです。地球の人類にできたことが異世界の技術でできないはずがありません。コンピューターがなければ、作ってしまえばいいのです。世界を同じ物理法則が支配する限り、技術はあらゆる場所で再現可能です。
これは、すべてのプログラマーとエンジニアに送る、異世界転生のための必読書です。
この記事の目標は、技術水準の低い異世界で、ゼロからコンピューターを作りあげることです。
これを考える上で今回行う仮定は、こんな感じです。ある日突然現代日本から異世界に転移、ないし転生した人間が、魔王を倒したりとか、世界を救ったりとか、ヒロインを助けたりとか、そういうどうでもいい事には目もくれず、ただただ最短でコンピューターを作ることに全力を尽くしたらどうなるか……というものです。
転生する前の主人公は、高校生のアニオタでも29歳プログラマーでも34歳無職でも、この際なんでも構いませんが、異世界においてはお約束通り、青年の男性の健全な肉体を持って生まれ変わるものとします。
また、異世界転生においては多くの場合何らかのチート的な能力を与えられる作品も多いですが、その手の設定は考え始めるとキリがないので、その手のチート能力に関しては考えないことにします。甘えは捨てましょう。苦境には身一つで戦うものです。
そして、転生先の異世界には魔法が存在します。
当然です。魔法の存在しない異世界は異世界じゃありません。しかし、多くの異世界ファンタジーでそうであるように、この魔法という存在は、場合によっては話のカギとなりうる、非常に重大な要素の一つです。かの有名なアーサー・C・クラークの言葉、「充分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない」というのとは少し違いますが、中世風の世界観に持ち込まれた魔法という概念はある種オーバーテクノロジーのようなものであり、今回のコンピューター製作をブーストさせる可能性が大いにあります。
また、魔法が使えるのが当然の世界観においては、主人公も何らかの努力で初歩的な魔法を習得できる可能性が高いでしょう。魔法を厳密に定義するのは難しいですが、ここでは物理的な整合性は意図的に無視して、人間の意志によって超常的な物理現象を発生しうるシステム……ということにしておきます。
転生の最終目標はコンピューターですが、コンピューターと一口にいってもさまざまなシステムが考えられます。人類史において「計算機」を最初に発明したのはパスカルであると伝えられており[1]、彼の発明した計算機は、ダイヤルを回すとそれに噛み合った歯車が桁を回すという単純なものでした。その程度のものであれば中世初期程度の技術で容易に再現可能なため、あまりインパクトがありません。
そこで、今回我々が目標とするコンピューターについて、いくつかの要件をまとめておきます。この記事で扱う「コンピューター」とは……
……の5つの条件を満たす装置とします。
第一の「入出力可能なこと」は特に問題ないでしょう。さすがに入出力ができない装置をコンピューターとは呼べないと思います。
第二の「加減乗除などの基本的な演算が容易に可能なこと」も概ね問題ないと思います。あとに述べる「チューリング可能」だけが要件だと、ライフゲームやセルオートマトンのシミュレーターも該当してしまいますが、それらを「コンピューター」として提出するのは何か違います。コンピューターの重要な目的の一つは計算なので、基本的な計算はもっと直感的にできるものとします。
第三の「プログラム可能なこと」は重要な要件です。我々が今回わざわざ異世界でコンピューターを作る目的は、曲がりなりにもプログラミングなので、電卓のような計算するだけの機械は、「計算機」ではありますが「コンピューター」とは呼ばないものとします。
第四に、「主として機械的な動力で動作」することを挙げました。マシンパワーに頼らなくてよいのなら紙と鉛筆も十分コンピューターです。ペンシルパズルは楽しいですがムーアの法則が適用されないので却下とします。
最後に、「チューリングマシンと同等な計算能力を持つこと*3」という条件を置きました。少しややこしいですが、ループや条件分岐など、現代のプログラミング言語に備えられている機能を有していればこの条件は満たされます。逆に、上から下に流れるだけの手順式のプログラムでは条件は満たせません。やはり作るなら、プログラミングの醍醐味が味わえるものでないと意味がありませんからね。
[*3] 実は、これがもっとも解釈の難しい条件です。「チューリングマシンと同等な計算能力」、即ちチューリング完全とは計算能力の指標の一つであり、今ではコンピューターの定義とされることも多い概念ですが、厳密にチューリング完全の条件を満たすマシンはこの世に存在しません。これはチューリングマシンの条件を満たすには無限の記憶が必要になるからですが、ここでは一般的に行われているように、「現実的な範囲内で」チューリング完全なものをそう呼ぼうと思います。
「1.1 はじめに」で紹介したとおり、異世界ものにおける「異世界」は、ほとんどが地球における中世ヨーロッパのような世界観を持っていると言われています。この部分についてもう少し詳しく定義していきます。
異世界の世界観を考える上で厄介なのは、何よりも「中世ヨーロッパ」という単語の曖昧さです。
西洋史において中世とは、概ね封建制度が社会の基盤となっていた時代を指し、西ローマ帝国皇帝が退位した西暦476年から、百年戦争が終結した西暦1453年までと定義されることが多いです[2]。つまり中世とは江戸時代のおよそ四倍にもなる千年間にわたって続いた「時代」であり、当然、初期と終期では技術水準が全く異なります。
また、異世界ファンタジーに登場する社会制度の多くは、絶対君主制・学校制度・常備軍といった特徴がみられ、中世と言いながらどちらかというと近世や近代のものに近いことが知られています。
一方で異世界の科学技術については一般的に低い傾向にあり、とりわけ銃器や大砲などの近代の武器が登場する機会はほとんどありません。この原因を魔法技術の発展に求めることもできますが、いずれにせよ異世界というのはこういったちぐはぐな世界観が入り混じってできたキメラであり、地球で言うところのどこそこ、というようなパターン化はとても難しいです。
以上を踏まえて本記事では、異世界の技術レベルを、概ね地球の中世盛期のヨーロッパの平均的な水準に定めつつも、細かい内容については、代表的な異世界ものの物語の設定を参照しながら考えていきたいと思います。実際問題、あなたが転生することになる異世界がどのようなものかはわかりませんし、重要なのは状況に応じて柔軟に計画できるような知識を蓄えておくことです。
異世界でコンピューターを作るためには、なによりもまず材料が必要です。我々が製作しようとしているコンピューターがおそらく電気によって制御されることを考慮すると、異世界コンピューター第一号の構成部品のほとんどが、銅や鉄を主とする金属類であることは疑いないでしょう。また、コンピューター部品の製造には、大型の工場と工作機械を必要とし、それらの製造にも大量の鉄が用いられることが予想されます。鉄を確保することは異世界でコンピューターを作るための最初の一歩です。
異世界で加工しやすい鉄が大量に入手できるかどうかは、転生先の異世界の製鉄技術の程度、とりわけ高炉が発明されているかどうかに懸かっています。
ヨーロッパにおいて、高炉はおもに15世紀から16世紀にかけて普及した技術です。異世界の技術水準を中世盛期のヨーロッパと定めるならば、高炉のような技術は出現していないと考えるのが普通でしょう。実際、多くの異世界ものでは「鋼鉄の鎧」「鋼鉄の槍」などの鋼鉄を用いたアイテムが登場しますが、精錬に高炉を必要とする鋳鉄や銑鉄はめったに登場しません。
作品によっては、魔法技術の一環として「鍛冶スキル」なる能力を設定しているものもあります。例えば「小説家になろう」版『この素晴らしい世界に祝福を』の第二部では、この「鍛造スキル」を用いてオイルライターを製造する、というイベントが存在するのですが*4、肝心のその製造過程を見てみると……。
[*4] ちなみに、文庫版では単に「内職」となっています。
小さな金槌を使い、鍛冶スキルで薄い鉄板を伸ばしていく。
そして形を整えてから暖炉の前の火を使い、それを鍛冶スキルで綺麗に溶接。
俺が朝から暖炉の前でせっせとジッポ作っているそんな様子を、暖炉の前に斜めに置いたソファーに陣取り、アクアがじっと眺めていた。
なんと、ライターの部品を金槌でせっせと鍛造しています。これはまさしく中世初期に見られる鍛冶職人の仕事そのものであり、歯車のような精密部品を鋳造するのに必要な冶金術が整っていなかった時代のものです。金槌だけでライターを製造するのはさぞかし大変なことでしょう。
というわけで、ライター製作を楽にするためにも、一刻も早く異世界に高炉の技術を持ち込みましょう。高炉は、水車などの動力を用いることにより飛躍的な発展を遂げた、製鉄用の溶鉱炉の一種です。いまでも多くの製鉄所には大型の高炉が設置されていますが、現代に至るまでその基本的な構造は変わっていません。
高炉は、名前の通り十分な高さのある炉です。これに鉄鉱石と炭を交互に投入し、炉の下部からこれを熱します。この際、水車などの動力を用いて大量の空気を送風することによって、炉の温度を高めるとともに、還元されて鉄鉱石から鉄となった炉材を浸炭させ、炭素を4%ほど含む銑鉄へと反応させます[4]。
鉄というものは、含有する炭素の量によって性質が大きく変わる金属です。炭素を全く含まない純鉄は、融点が1500度と非常に高く、通常の製鉄では得られません。炭素を添加することによって融点が下がり、飽和状態になる鋳鉄では1200度程度で溶けるようになります。この性質と、大量の酸素を送り込む高温還元を用いて、液体の状態で溶鉄を取り出せるようにしたのが、高炉のメカニズムの基本です。
それ以前の時代の製鉄において、鉄とは原則として固体の状態で精製されるものでした[3]。そのため鉄を取り出すたびに炉を破壊する必要があり、生産効率は非常に低かったと言われています。高炉の登場によって鉄の生産性が大幅に向上すると同時に、二段階製鉄という製鉄の新たな手法が生まれ、その中間生成物として鋳鉄が得られるようになりました。今回のコンピューター製作において、銅に次いで二番目に重要な金属です。
次に掲げる蒸気機関の設計にも、計算機に用いられる精密な歯車の製造にも、鋳造に適した鉄材料が必要不可欠です。鋳鉄は炭素を大量に含むため硬く脆く、大規模な構造物の建材には向きませんが、融点が低く接合性が高いことから、逆に複雑な形状の部品を鋳るのには最適の材料です。
現代の高炉がそうであるように、高炉の動力は、高い送風力が得られる燃料装置によるものが望ましいです。今回の挑戦では蒸気機関が最もそれに近いのですが……その蒸気機関を製造するのには高炉から生まれる鋳鉄が必要不可欠なので、これは完全にニワトリとタマゴです。よって、最初の高炉の動力は蒸気機関ではありえません。
蒸気機関が発明される以前のヨーロッパにおける動力と言えば、水力、風力、畜力(特に馬力)あたりが中心です。このうち風力は高い出力が得られず、馬力は維持費も導入費もかさむため、今回のように移動させる必要がなく、比較的どこにでも建設可能な高炉においては、水力を利用するのが良いでしょう。これも、ヨーロッパの製鉄の歴史をそのままなぞる形となります。
高炉の立地には非常に気を使う必要があります。第一に、水力を利用することから高低差の激しい河川部、それも、できればダムのように堰き止められる場所を選びましょう。水車といえば穏やかに流れる川に足をつけ、ゆったりと回る観覧車のようなものを想像する人も多いでしょうが、そのような旧式の下がけ水車よりも、水圧によって高速で噴射される水の運動エネルギーを利用するほうが効率がよいことが現代では知られています。もっとも、高炉にそこまでのパワーは必要としないので、水利のよい異世界ならば適当な河川のそばに建造することも可能です。
第二に、鉄鉱石と石灰、さらに還元剤かつ燃料として使用するコークスの原料である石炭の産出地からなるべく近い所を選びます。鉄鉱石や石灰はそれ以前の製鉄でも用いられるものなので、異世界でも容易に入手できるでしょう。問題は石炭です。単に燃料として見るならば木炭のほうが優秀なので、異世界に石炭が流通していない可能性は大いにありえます。乾留してコークスにするのも手間なので、場合によってはコークスの代わりに木炭を用いなければいけないかもしれません。
その他、高炉の建築材料の調達、炉から発生する煙による公害、そもそも私有できる土地であるかなどを考慮する必要があるでしょう。これらの条件を総合して、高炉の建造に適した立地を、転生した異世界に応じて柔軟に決定しましょう。例えば、実際に異世界に高炉を建設する様子が描かれている『エルフ転生からのチート建国記』という作品の第二章では、特に炭鉱との距離と公害の影響を勘案して、「商業都市エリンの郊外」に高炉を建設しています。
転生先の異世界の魔法技術によっては、水力よりも効率的に高炉を稼働する方法が存在する可能性があります。今回の高炉に必要なのは、動力そのものではなく炉の温度を上昇させるための送風装置なので、例えば風系の魔法で炉に直接送風するというのは悪くない発想でしょう。炎系の魔法で直接炉を加熱するという形態も考えられますが、アニメなどで見られる炎系魔法の多くが赤い色の炎を吹き出すことを考慮するに、高炉の稼働に必要な1200℃以上の温度が得られるかどうかについては、かなり懐疑的です。
高炉の建造は、全てがうまくいけば数ヶ月程度で終了するでしょう。高炉が完成したら、次は水力や風力よりも近代的な動力である蒸気機関を建造しましょう。異世界に産業革命を起こすのです。
よく知られているとおり、蒸気機関は、地球においては18世紀のイギリスで発明された、熱機関を用いた世界初の実用的な動力であり、その後のイギリス産業革命のきっかけにもなった、まさしく世界を変える発明でした。
蒸気機関の動作原理は簡単で、水が熱されて蒸気に変化するときの膨張と、冷却され水に戻るときの収縮を、ピストンを用いた一連の機構により往復動に変換する、というものです。
まず、ボイラーと呼ばれる、圧力鍋のような装置に水を入れ、石炭などの燃料で加熱します。ボイラーの蒸気孔は、巨大な注射器のようなシリンダーにつながっており、蒸気の圧力がシリンダーのピストンを持ち上げます。この時の運動エネルギーを動力として利用するのです。現代の熱力学的視点から見ると、これは熱交換により熱エネルギーを運動エネルギーに変換する装置であり、カルノーサイクルを実現するための最も単純な機構でもあります。
しかしながら、現実にこの装置を実現することは、そう容易いことではありません。蒸気機関の発明には、セイヴァリ、ニューコメン、ワットなど複数の人物が連鎖的に関与したことが知られていますが、それぞれにそれぞれのブレイクスルーがあり、蒸気機関の実用性はみるみる向上していきました。特にジェームズ・ワットが発明した分離凝縮器を付けた蒸気機関(以後分離凝縮器機関と書く)とクランクの功績はめざましく、蒸気機関それ自体にも大きな革命をもたらしました。
地球の歴史でこの後登場する内燃機関や電気機関に対して蒸気機関が優れているのは、何よりも燃料が自由に選べる点です。これは、電気もガスも石油も入手が困難であろう異世界においては非常に重要なことであり、木炭・石炭などはもちろん、ボイラーを加熱できるあらゆる魔法の応用を視野に入れることができます。
それでは、実際に異世界で蒸気機関を作るとしたら、どのような形になるでしょうか。これは転生先の異世界によって様々なバリエーションが考えられますが、基本的にはワットの分離凝縮器機関あたりを参考にするのがよいと思われます。
ワット以前にニューコメンが発明した、実用上広く用いられた初めての蒸気機関は、またの名を大気圧機関と呼びます。大気圧機関ではまず、加熱したボイラーから噴出する蒸気をシリンダーに注入し、蒸気の圧力でピストンを持ち上げます。ピストンが規定の位置まで持ち上がったら、搖動するビームが噴射ポンプのピンを引き、水槽からシリンダー内部に冷却水が噴出します。これによりシリンダー内部に充満した蒸気が冷却されて一気に凝縮し、シリンダー内の圧力が下がります。あとは大気圧との気圧差がピストンを押し下げるので、これを繰り返すことにより往復運動が行われます。
「蒸気の蒸発と凝縮を用いて熱エネルギーを運動エネルギーに変換する」という蒸気機関の基本原理を愚直に実装した、非常に素朴でまっとうな機構ですが、これには大きな問題がありました。それは、ピストンが往復するシリンダー部を、何度も加熱したり冷却したりしなければならない点です。理想的には、凝縮時に蒸気だけをうまく冷却すればこの部分で熱損失は生じませんが、現実には、シリンダーやピストンも同時に冷却され、熱を失ってしまいます。これは非常に効率が悪いばかりか、真鍮でできたピストンやシリンダーが熱により伸縮するため、空気漏れの原因になったり、耐久性を下げる原因になったりします[5]。
ニューコメンの発明からおよそ50年後、ジェームズ・ワットは非常に単純なアイデアでこれを解決しました。ワットが発明した分離凝縮器機関のブレイクスルーは、注入された蒸気を凝縮するための凝縮器を、シリンダーから分離して分離凝縮器とした点です。シリンダーから直結したこの凝縮器は、常に水に浸けられ低音に保たれています。シリンダー内が蒸気で満たされたとき、凝縮器につながる弁を開くと同時に凝縮器内に冷水のジェットを吹き込むと、シリンダー内の蒸気は勢い良く凝縮器へと流れ、その中で水へと凝縮します。こうして、シリンダー内を高温に保ったまま蒸気を凝縮することが可能となり、蒸気機関の効率は一気に数倍に上昇しました。凝縮器を分離するというこの発想は、現代でも復水器として受け継がれており、発電所を支える重要な施設の一つとなっています。
ワットの功績はこの他にも、蒸気機関の往復運動を回転運動に変換するクランクの実用化など、枚挙に暇がありませんが、異世界において我々が最も必要とするであろう機構は、やはりこの分離凝縮器でしょう。この後トレビシックにより高圧蒸気機関が発明されてからも、定置型の蒸気機関としては変わらずこの仕組みが使われ続けました。これが今日ワットが「蒸気機関の父」と呼ばれ、「蒸気機関の発展にもよおした根本的な影響において、ジェームズ・ワットほど大きな寄与をしたものはいない」[5]とまで言わしめる原因であります。異世界で蒸気機関を作る際にも、きっとこの知識が役に立つでしょう。
異世界にやって来た時に、特許制度が存在するかどうかは重要なチェックポイントの一つです。一般に異世界もので特許が登場する機会は少ないですが、例えばGCノベルズから発刊されている『異世界転移したのでチートを生かして魔法剣士やることにする』には、前述のコークスを使用した製鉄に対して特許を取得するシーンが登場します。
「カエデさんですね、技術については少し前に話が来ていましたが特許型の契約をお望みとのことで。特許料は利益の5割ほどでいいですか?」
(中略)
「はぁ…… 5割というのは安めなんですかね? ちょっとこういうことには疎くて」
「ええ、私も特許契約など初めてですし詳しい契約内容は商業ギルドの人にも仲介に入ってもらって決めることになりますが大体特許料は利益の7~5割程度が相場かと思います、これほど大きい物を独占するとなると……」
そういうものなのか……
これは技術が保護されているということか? この世界の文化レベルにしてはできすぎている気がしないでもない。
まあどこの世界にも天才とかそういった類いの人間はいるのだろう。案外この文明レベルも魔道具が便利すぎるせいだったりして。
「利益の7~5割程度」の特許料は確かに高めですが、特許が金になるのは本当です。実際、ワットが契約者に請求した特許利用料は、新型蒸気機関によって節約された燃料費の3分の1と定められていました[5]。彼は商才ある実業家マシュー・ボールトンの手を借りて、特許料取得の仕組みを制度化し、莫大な富を手にします。
今後コンピューターを製造する工程において、莫大な予算が必要となってくるでしょう。異世界に特許制度があった場合、またボールトンのような商才あふれるパートナーと出会うことができた場合は、蒸気機関ないし高炉の発明を特許化し、一度蓄財に力を入れることをオススメします。
異世界に特許制度がない場合、この部分で大きく苦労することになるでしょう。もっとも地球において特許制度が確立したのは近世に入ってからなので、上の引用でも言及されているとおり、異世界の文明水準では特許制度が存在しない確率のほうが高いです。その場合、異世界によく登場する、職人ギルドや商人ギルドの専売権を利用してうまくやりくりするしかありません。
以下、異世界で実際に蒸気機関を操業する際に気をつけておくべきポイントを挙げていきます。
ボイラーで煮沸する水には、純粋な水だけでなく微量の空気や不純物も溶存しています。これをこのまま加熱し煮沸すると、蒸気だけではなく空気も一緒にシリンダーに注入され、少しずつ内部に蓄積されていきます。これをこのまま放置すると、凝縮時に溶け残る空気の割合が少しずつ増えていき、蒸気機関の動作効率が悪くなって、やがて止まってしまいます[5]。
これはウィンド・ロッギング (wind-logging)と呼ばれる現象[5]で、ニューコメンが蒸気機関を実用化する際に立ちはだかった壁の一つでした。当時の科学ではこの現象を解明できなかったため、ニューコメンはこの壁を乗り越えるのに多くの試行錯誤を繰り返しましたが、これを解決するのは簡単で、シリンダー内の蒸気が凝縮した後に、数秒間シリンダーに蒸気を空流しすればよいのです。こうすることによって、蒸気とともに溶存していた空気が排出され、蒸気機関は止まることなく稼働し続けます。異世界で蒸気機関を操業する際には、必ずこれを覚えておきましょう。
蒸気機関の中で最も精密な部品は、ロッドに接続され各部の弁を制御するピンでも、凝縮器内に冷水を吹き込む噴射ジェットでもなく、実は、機関の心臓部であるシリンダーとピストンです。
ピストンとシリンダーの隙間が蒸気を漏らさず、また摩擦なくスムーズに往復するために、シリンダーは非常に正確な円筒形である必要があります。ニューコメンの時代では、銃器の製造によって精密な円筒形を作る技術はある程度知られていましたが、蒸気機関で用いられるシリンダーの内径は大きいもので2メートルに及ぶため、スケールがまるで違います。
そのため、シリンダー製造の際にはなるべく正確な円筒形になるよう細心の注意を払う必要があります*5。しかしやはり手工業によるには製造では限界があるため、どうしてもピストンがシリンダーにぴったり嵌まるということはないでしょう。そこで、この2つの隙間を埋めるパッキングが必要になります。
[*5] ニューコメンの時代には、鋳造した真鍮の円筒の内面を、砂を用いて一生懸命磨き上げた……とあります。
パッキングは、蒸気機関が生まれた瞬間から現代に至るまで技術者を悩ませ続ける問題です。ニューコメンは、ピストンに革のベルトを巻き付け、その上に水を張るという方法で、ワットは、麻に牛脂を染み込ませたパッキングを、内側からリングで押し込むという方法でこれを解決しています。革も麻も牛脂も、異世界では難なく手に入るでしょうから、いろいろ試してみて、これらの中から最も適した方法を選びましょう。
蒸気機関の発明から半世紀後、産業革命真っ只中のイギリスに、チャールズ・バベッジという数学者がいました。
バベッジは若くしてロンドン王立協会のメンバーとなった数学の天才でしたが、あるとき*6歯車とレバーで動く機械式計算機のアイデアを得たことから、それ以降の人生を彼の思い描いた機械式計算機の設計に捧げることになります。現世界の彼は残念ながら
[*6] 1812年ごろ
しかし、この解析機関は、時代を先取りしすぎていたがために、精密な部品や機構を大量に必要とし、バベッジの時代の技術や資金ではとても実現できるものではありませんでした。そのため、現代には彼の残した設計図だけが残されています。現在、これらの設計図からバベッジの思い描いた解析機関を復元する、Plan 28というプロジェクトが進行中ですが、完成には10年程度かかる見込みです。
今回の異世界コンピューター計画でも、当初、バベッジの流れを汲んだ機械式計算機を異世界で組み立てることを検討していましたが、現代技術を用いても10年かかる代物を、異世界で現実的な時間内に組み立てられるとは思いません*7。彼の着想はあらゆる意味で早すぎたのです。異世界で解析機関を組み立てることは諦めました。
[*7] しかも、この計算機はプログラミング可能ですが、ジャンプなどの命令を持たないためチューリング完全ではありません。
ところで、バベッジは、マイケル・ファラデーやジェームズ・マクスウェルなど、後に電磁気学として知られる学問の基礎を作り上げた科学者たちと親交があったことが知られています。しかし、彼らが研究していた電気という代物が、後にバベッジの夢想した計算機の時代をもたらそうとは、当時としては誰ひとりとして想像していませんでした。
そう、現代のコンピューターには電気が必要不可欠です。頭書に記したような条件を満たすような計算機を実現する手段はいくつか考えられますが、異世界で最も現実的に再現可能なものは、やはり電気式計算機ということで落ち着きました。
電磁気学は前述の通り19世紀に発達した学問なので、普通に考えると中世ヨーロッパ風の世界でこれらが研究されている可能性は極めて低いでしょう。しかし、それがいわゆる「異世界」であれば話は別です。
異世界には魔法があり、多くの場合「炎」「水」「氷」といった属性によるジャンル分けがなされています。その中でも特にメジャーな属性に雷属性が存在します。雷属性の魔法というのは要するにドラクエで言うところのベギラマであり、雷に似た放電現象を引き起こす魔法の総称……といった扱いを受ける場合がほとんどです。
雷属性の魔法が広く浸透している異世界ならば、危険な凧揚げをするまでもなく、雷の正体が電気現象であることはすぐに調べがつくでしょう。となると、そこからさらに進んだ電磁気の研究がなされていても不思議ではありません。
たとえ雷魔法が存在する世界でも、電動機や電球などの簡易な電力機器さえ発明されていれば、電気を継続的に供給する装置への需要は高いはずです。ちょうど地球において、臼を挽くだけなら人の手で足りるにもかかわらず、効率化や自動化のために水車や風車による挽臼が普及していったのと同じような感じです。
なので、異世界において何らかの形で発電機が発明されている可能性は高いと思われます。それが人力なのか水力なのか風力なのか、はたまた魔石とかそういう系のファンタスティックなエネルギーなのかはわかりませんが、電磁気学の研究さえ進んでいれば、小学生でも工作できる発電機の発明を妨げるものは何一つありません。それどころか、質の高い導線さえ発見されていれば、大規模な電力システムがすでに構築されている可能性すらあります。
いくら魔法と言えど、結局は人間が介在しなければならないという限りにおいては、まったく科学を置き換えるに足るものではありません。人の手を介さないエネルギー供給、そして社会と一体化したエネルギー循環システムを構築できて初めて、科学を超えたといえるのです。この点において、我々は異世界において魔法ではなく科学が発展している可能性を大いに考慮するべきです。これは、異世界で電気式計算機を作るべき第2の理由でもあります。
しかし残念なことに、それほど大規模なエネルギーシステムが整った異世界には未だにお目にかかったことがありません。これは水道や道路と同じように、いかに十分な技術があろうと、インフラとして整えられるにはそれに見合った社会制度が必要とされるということなのかもしれません。
というわけで、我々は異世界に電気が普及していなかった可能性を考えて、発電機を一から組み上げる方法を習得しておく必要があります。
……といっても、先ほども述べたとおり、発電機に必要な機構はそう大したものではありません。後に製作する電気式計算機に必要なのが直流電源であること、また効率の良い整流器も得難いことから、必要とされるのはオルタネーターや誘導発電機ではなく大型の直流ダイナモであり、その意味でも、(これ以前のものに比べると)非常にハードルの低い壁だと思われます。
ダイナモとは、運動エネルギーを電力に変換する発電機の中でも、特に初期に完成したものであり、電磁石と磁石と整流子を用いて直流電源を得るものの総称です。ちょうど、小学校の工作でよく作る整流子電動機を、逆に動作させたものだと思えばよいでしょう。この形式の発電機は、地球ではすぐに交流発電機に置き換えられて姿を消しますが、19世紀末から20世紀初頭にかけては広く用いられた形式でした。
ゼノブ・グラムが発明した、世界で初めて商用に実用化された発電機は、多極式の他励電磁発電機でした[6]。つまり、単純にN極とS極の2つの方向を向いた二極を持つコイルを磁界の中で回転させるのではなく、5つから6つ程度の複数の方向を向いた極を持つコイルを利用するものです。二極では回転に応じて出力が変動し扱いづらい出力電流が、これにより平滑化され、安定した高出力の直流電流を得ることができます。この機構は、発明者の名前を取ってグラム発電機と呼ばれています。
グラム発電機は、当時すでに広く普及していた蒸気機関と接続され、200ボルトの直流電流を供したとされます[7]。異世界で発電機を作る際も、基本的にはこの形式を模して作ればよいでしょう。余裕があれば、同時代にジーメンスやホイートストンが発明した自励式発電機を実装することもできます。動力は先ほど製作した蒸気機関を使用してもいいですし、場所によっては水力ないし風力が適しているかもしれません。ただ、異世界の水車や風車など高が知れているので、高出力を得るためにはおそらく蒸気機関を利用する必要があるでしょう。
ちなみに、発電機に必要なコイルを製作するには、絶縁電線が必要ですが、19世紀当時の科学者は主に銅線に絹布を巻きつけたものを使用していました[8]。ゴムで被覆した電線が登場するのは20世紀に入ってからです[9][10]。異世界でゴムまで製造している暇はないと思うので、特に問題なければ同じように布の被覆で済ませるのがよいと思われます。
さて、いよいよもって目的のコンピューターに近づいてきました。このあたりで一度、コンピューターを作る時に必要なものについて考えておきましょう。
話は少し変わりますが、マインクラフトというゲームに興味がある方は、レッドストーン回路というものを聞いたことがある人も多いと思われます。マインクラフトは、仮想的な3次元空間の中で、建物を立てたり、狩猟をしたり、採掘をしたりと自由に生活するゲームで、空間内を区切るブロックと言う単位で物を配置したり合成したりすることができます。その中でもレッドストーンと呼ばれるブロックは、他のいくつかのブロックと組み合わせることで回路のようなものを作ることができ、応用すると複雑な計算やプログラミングまでできることが知られています。これはまさしくコンピューターそのものと言っていいでしょう。
では、コンピューターを製作できるレッドストーンの機能とはどのようなものなのでしょうか?レッドストーン回路の主要部分は、レッドストーンとレッドストーントーチという部品で構成されています。
レッドストーンは電気回路で言うところの導線の役割を果たしており、ONとOFFの2つの状態をワイヤーのように伝達することができます。また、2つのレッドストーンワイヤーを合流させれば、入力された2つの信号のどちらかに反応するような回路(論理回路でいうOR回路)を組むことができます。
レッドストーントーチは火の付いたトーチであり、通常ON状態を持つ、レッドストーンの信号源です。そして重要な特徴として、ON状態のレッドストーンにトーチを接続すると、逆に火が消えます。つまり、トーチを経由してレッドストーンを接続することで、ONとOFFを逆転させる回路(論理回路でいうNOT回路)を組むことができます。
なんと、レッドストーンの持つ演算機能はこれだけです。デジタル回路の知識を持った方ならすぐにピンときたでしょうが、NOT素子とOR素子があればNAND素子を構成することができるため、それを使って他のあらゆる論理回路を組み立てることができてしまいます。それこそ電卓から我々が使っているコンピューターに至るまで、全てです。
レッドストーンによる回路設計を可能にしたのは、何よりもトーチの存在が大きいです。レッドストーントーチの、入力信号を反転させて別の導線に伝えるという機能、もっと一般化して言うと、ある信号が別の信号のON/OFFを制御することができるという特徴によって、コンピューターを作ることが可能になったのです。
コンピューターを作るのに必要なのは、突き詰めて言うとこの機能を持つ部品です。現代のコンピューターでは、トランジスタがこの機能を担っています。トランジスタにはバイポーラトランジスタや電界効果トランジスタなど多くの種類が存在しますが、いずれも原料に半導体を使用して作られています。
異世界において、この半導体を製造するのは至難の業です。なにせ半導体の製造には、純度99.999999999%という超高純度シリコンの精製が必要であり、異世界で作り始めると何十年かかるかわかりません。膨大な設備と資産が必要となることは想像に難くないでしょう。
それでは、我々は何を使ってコンピューターを作るべきでしょうか。我々がコンピューターを作るのに必要なのは、「ある信号が別の信号のON/OFFを制御することができる装置」です。実は、このような機能を持つ装置は、地球でもトランジスタの発見に先駆けて100年以上も前に発見されていました。それが、リレーという装置です。
リレーは、継電器とも呼ばれる電子部品の一つであり、小さな入力電流で大きな電流を制御するための部品です。
リレーの仕組みは非常に単純です。リレーの入力部には小さな電磁石が接続されており、この部分に電気が流れることで磁力が発生します。この磁力で、出力部に繋がるスイッチを物理的に開閉します。そのため、リレーが動作する時にはスイッチが切り替わる「カチッ」という音が鳴ります。
リレーは1835年にジョセフ・ヘンリーによって発明された、歴史ある電子部品ですが、現代でも意外と多くの電子機器に使用されています。例えば、車のウインカーが点滅している時に鳴る「カチッカチッ」という音は、実はわざと鳴らしているのではなく、車体に組み込まれた車載リレーが作動している音です。
このように、現代では主に回路の開閉や保護など、ちょっとした制御に用いられるリレーですが、この部品は先ほど挙げた、コンピューターに必要な「ある信号が別の信号のON/OFFを制御することができる」という要件を満たしています。つまり、リレーだけを使ってコンピューターを構成することができます。リレーは先ほども述べたとおり非常に単純な仕組みで動作し、必要な部品も、鉄心、巻線、スイッチといった基本的なものばかりです。細かな調整は必要でしょうが、これなら異世界でもなんとか製造が可能でしょう。
鉄心の材料には、透磁率が高いケイ素鋼が望ましいのですが、シリコンを用いるため、トランジスタの製造が難しいのと同様の理由で、これを得るのは難しいと思われます*8。通常の錬鉄や銑鉄でまかないましょう。
[*8] トランジスタほどの純度は必要ないのですが、電気精製を用いる方法は大量の電力を消費するため不可能です。また、二酸化ケイ素とマグネシウムを反応させてケイ素を得るという方法もありますが、量産は難しいでしょう。
その他の細かい材料は、鋳鉄などを用いて鋳造すればよいでしょう。ここでもやはり高炉の存在が役に立ってきます。
リレーを使えば理論上コンピューターを作ることができることがわかりました。では、現実にリレーでコンピューターを作るにはどれほどの手間が必要なのでしょうか。
そもそも、トランジスタの代わりにリレーを使ってコンピューターを作るというのは、なにも夢物語ではありません。今では多くが忘れ去られてしまいましたが、地球でもかつてリレーを使ったコンピューターが作られていました。
「世界初のコンピューター」の一つ*9であるZuse Z3は、リレー式のコンピューターでした。
[*9] 世界初のコンピューターというのは定義が難しく多くの議論を呼びますが、Z3は「世界初の動作可能でプログラム可能な自動計算機」と定義されます。
コンピューター草創期に生まれた計算機といえば、回路素子に真空管を利用したENIACが有名ですが、リレーを使用したZ3はそれよりも5年早く、1941年に完成していました。
Z3の製作者であるコンラッド・ツーゼは、第二次大戦中のドイツを生きた技術者でした。彼は自動計算機のアイデアを独力で思いついてから、チャールズ・バベッジと同じ純機械式計算機を設計し、自宅の居間に完成させました。これがZuse Z1です。
Z1はやはりバベッジの解析機関と同じように(複雑さは段違いですが)独立した演算部とメモリを持ち、外部からプログラム可能な汎用計算機でした。惜しむらくは、やはり3万個におよぶ複雑な機械部品を正確に噛み合わせること自体に無理があり、ほとんど正常に動作しなかった点です。その後、ツーゼの関心は機械式計算機からリレーを使用した電気式計算機へと移行し、演算部分をリレーに置き換えたZuse Z2を経て、完全にリレーで動作するZ3を作り上げました。
Z3には、演算部に600個、メモリ部に1400個、計約2000個のリレーが使われています[11]。異世界で製造するにはかなり頭が痛くなる量ですが、実を言うと、Z3は我々の定義に合致するコンピューターではありません。Z3は分かりやすい入出力装置を持ち、電卓のように使えるほか、映画フィルムを加工したパンチカードからプログラムを読み込むことが可能ですが[12]、分岐命令を備えていないため、普通に使うとチューリング完全な機械ではありません*10。
[*10] 「普通に使うと」と言うのは、実はZ3の完成から50年以上経った1998年に、特殊な方法でZ3でチューリングマシンを実装する方法が示され、チューリング完全であることが証明されてしまったためです。しかしいずれにせよZ3でプログラミングするのは厳しいので、チューリング不完全として扱うことにします。
Z3が完成してからトランジスタが普及するまでのわずかな間、リレーは真空管と並んで多くのコンピューターの回路素子として使われました。例えば、ベル研究所のModel I、II、III、IBMのHarvard Mark I、II、国内ではカシオの14-Aや富士通のFACOM 128A、128Bなどがリレー式コンピューターとして知られていますが、実は、これらの多くはチューリング完全ではありません[13]。即ち、条件分岐やジャンプといった命令を持ちませんでした。
これは、当時のコンピューターが完全な万能計算機として動作する必要がなく、特定用途の計算に使えれば十分だったためなのですが、我々が求めるコンピューターの要求は満足にプログラミングできることなので、特定用途の計算だけでは物足りません。やはり最低限チューリング完全であることは押さえたいものです。
その後トランジスタの登場により時代はシリコン全盛期を迎え、商用計算機としてリレー式コンピューターが製造されることはなくなりました。しかし、現代でも物好きな有志によってリレー式コンピューターが製作されることがあります。
趣味で製作されたそんなコンピューターの中には、技術的に興味深いものがいくつもありますが、その中でも特に注目したいのは、「チューリング完全な世界最小のリレー式コンピューター」を自称するTIM-8*11です。
[*11] TIM Relay Computer
TIM-8はRory Manglesらによって製作された8ビットのハーバード・アーキテクチャのコンピューターであり、5つのレジスタと8つの命令セットと12バイトのメインメモリ、そしてディップスイッチで実装された16バイトのROMを持っています。これはノイマン型でないことを除けば現代のコンピューターとほぼ同じ構成で、条件分岐やループといった命令も有しています。この機械を用いた操作は十分プログラミングと呼んで差し支えないでしょう。
使用したリレー数は、なんとわずか152個と記録されています。TIM-8はメモリ部分にDRAMを採用しているためZ3と単純に比較することはできませんが、これはZ3が演算部に使用した600個のリレーと比べても確実に効率化されているといえるのではないでしょうか。
異世界ではDRAMとして使用できるほど信頼性の高いコンデンサは入手し難いと思われるので、メモリには依然リレーを使用する必要があると思われます。しかし、TIM-8の結果から類推するに、チューリング完全なマシンとして動作可能なコンピューターを作るのに必要なリレーの数は、うまく作ればせいぜい300個から500個程度で済むのではないかと推測されます。リレーを1個1個手作りしなければならないことを考えると大変な量ですが、時間をかければ決して不可能な数ではないはずです。
ようやく、異世界でゼロからコンピューターを作るための計画の全貌が明かされました。ここで、異世界にやってきてからコンピューターが完成するまでの流れを、必要な時間の見積もりとともに簡単に振り返ってみましょう。
このような感じになりました。計画に遅滞なく完璧に進んだ場合、しめて14年かかる見積もりです。つまり、この記事を読んだあなたが、なんの脈絡もなく突然異世界に飛ばされたとしても、14年あればコンピューターでプログラミングできるようになるということです。異世界も捨てたもんじゃありませんね!
時間の見積もりに関しては完全に推測の域を出ないので信頼できる数字ではありませんが、大雑把なスケール感については概ね正しいのではないでしょうか。現実の歴史においてコンピューターが登場するまで、中世から数えて優に500年以上はかかったことを考えると、かなりスピーディーに進行しているように感じられます。
さて、今回は異世界でコンピューターを作るために、リレーを用いた道のりを示しましたが、もちろんこの他にもコンピューターを作るにはいくつかのルートが考えられます。今回の記事を書く上で検討した他の道を参考までに挙げていきます。
リレーとともにコンピューター黎明期を支えた立役者、真空管を使うというアイデアは、大いにありえました。
真空管は、電球のような見た目の電子部品であり、内部の真空を流れる電子流によって、電流を増幅したり整流したりすることができます。リレーやトランジスタと同じ特性を持つため、コンピューターの基本素子として利用することができます。
内部を真空にした電気装置という点で、真空管は白熱電球と製造方法がほぼ同じであり、製造技術としては19世紀半ばにはすでに完成していました。異世界でも比較的容易に製造できる可能性はあるでしょう。
ただ、当時の真空ポンプに使用されていた水銀が、異世界でも容易に入手できるかは若干不安です。また、真空管を使用したENIACが5名以上で開発に2年半かかったのに対して、リレーを使用したZuse Z3が、(Z1、Z2で実験済みであったとはいえ)1人の力で1年半で完成したという違いが気がかりです。真空管もリレーも論理素子として見れば、ほとんど互いに交換可能な部品ですが、質の悪い真空管は故障しやすく、ENIACでは平均して1日に3本の真空管が壊れていたといいます。そういうわけで、コスト的に考えても真空管よりリレーが優れているのではないかと考えました。
本編では「トランジスタは質の高い高純度シリコンの精製が必要であるため難しい」と述べましたが、異世界におけるトランジスタの製造は、全く不可能というわけではありません。
マグネシウムを何らかの方法で入手するか、大電力の発電設備とアーク炉を整えることによって、「化学的に」純粋なシリコンを製造することは、まあまあ可能です。しかし、そこから「電子工学的に」純粋なシリコンを精製することは、かなり困難を極めます。
シリコンの精製法として比較的古くから知られているものに、チョクラルスキー法が存在します。これは溶融したシリコンを注入した坩堝に種結晶を浸け、結晶を育てながら、ゆっくりと回転させて引き上げるというものです。言うのは簡単ですがこの製法には適切な温度管理とクリーンルーム級の空気清浄が必要であり、量産するどころか、僅かな量を製造するのすら難しいでしょう。
ちなみにジョン・チョクラルスキーがこの方法を発見したのは、ペンにインクを付ける際に、誤ってインク壺ではなく溶解した錫の容器にペンを突っ込んだのが原因だと言われています。実はこのうっかりミスは電子工学の歴史における単一障害点であり、このミスがなければ電子工学の発展が何年遅れたかわからないとも言われています。
異世界の魔法を用いてチョクラルスキー法の問題をクリアする、ということを夢想することもできます。例えば、絶妙な温度管理には炎系の魔法を、クリーンルーム級の空気清浄には風系の魔法を、引き上げられたシリコンインゴットへのドーピングには土系の魔法を……などと考え始めると、かなり夢が広がります。が、それだとあまりに魔法に頼りすぎるので最初からこの方法を検討することはやめておいたほうがいいでしょう。もしあなたに転生先で多くの魔道士と知り合うだけの人望があり、そのうえ少年漫画的な展開をお望みなら試してみるのもいいかもしれません。あなたのコンピューター計画に少年漫画のようなオチが付くことは保証しませんが。
量子コンピューターは、リレーやトランジスタのような素子とは全く異なる動作原理で動くコンピューターです。そもそも現在時点で研究が完成してない上に、ナノレベルの金属加工が必要になるため現実的ではないでしょう。
DNAコンピューターは、DNAに対する酵素などの生体反応を利用して計算を行うコンピューターです。こちらも現時点で研究が完成してない上に、遺伝子の読み出し・書き込みには膨大な設備が必要になるため現実的ではないでしょう。
大穴というかなんというか、一見無謀に見えて意外と現実的に考慮可能なのが流体コンピューターです。
流体コンピューターは、電気信号の代わりに、空気や水などの流体を用いたコンピューターです。トランジスタと同様の機能を持つ素子も1960年代にはすでに完成しているので、電気式コンピューターとほぼ同じ原理を用いてコンピューター組み立てることができます。
実際、そのような原理を用いて実用化された流体コンピューターもいくつか存在します。異世界でこれを作ろうと思ったらそもそも電気が必要なくなるので、発電機もリレーも必要なくなります。そういう意味では意外と異世界向きのコンピューターなのかもしれません。
しかし、流体コンピューターで用いられる流体素子の研究はトランジスタほど進歩していないため、さまざまな不都合が考えられます。さらに、流体コンピューターは実のところデジタルコンピューターよりもアナログコンピューターのほうが適しているようで、実際に実用化された流体コンピューターの一つであるMONIACも、経済活動を流量を用いてアナログ的にモデル化したものだったそうです。
「異世界に転生したら科学技術で無双できるのでは?」「古代にタイムスリップしたら現代の知識でやりたい放題できるのでは?」というのは、誰もが一度は考えたことがあることだと思います。実際、「小説家になろう」や関連サイトでは、そのような趣旨の小説が、「技術チート」というジャンルで多く投稿されています。
しかし、少しシリアスに考え始めると、そのような挑戦がいかに無謀であるかがわかります。なにせ異世界ときたら、明かりを灯そうにも電球はなく、プラスチックを作ろうにも油田はなく、現代兵器を作ろうにも特殊鋼はなく、そして、プログラミングをしようにも当然コンピューターなんてない世界なのです。
肝心の現代知識を活かすための基盤が圧倒的に足りないのです。逆に捉えると、現代社会がいかに多くの技術基盤の上に成り立っているかということを痛感させられます。
この記事は、現代を支えるそんな技術基盤について、少しでも多く知りたいという思いから始まりました。技術チートの定番といえば「銃」「火薬」「蒸気機関」あたりですが、実際問題、これらの詳細な製造方法について詳しく知っている現代人がはたしてどれほどいるでしょうか?そもそもそれ以前に、中世の冶金術について、建築技術について、紡績技術について、どれほど知っているか?と考え始めると、我々は技術チートどころか、異世界を生き抜くことすら難しいことがわかります。
我々が今立っている場所にかつて何があったのか、どんな技術が流行り、廃れ、枯れていき、そして現代の技術の礎となったのかを知ることは、決して意味のないことではないと信じています。異世界ものを題材に、というかなり怪しいテーマで書き上げましたが、僕にとってもそうであったように、この記事がそんな「前時代の」技術について、少しでも知るきっかけになれば……と思います。
それでは、またどこかのイベントでお会いしましょう。博多市でした。
今回の記事を書く上で、多くの先哲の書を披き、知識の源として大いに活用させていただきました。
ここではそんな本の中でも、特にオススメできるものを紹介したいと思います。
この記事のために、多くの異世界ものの漫画や小説を読み、異世界についての見聞を深めましたが、「科学文明の遅れた異世界で現代の技術を一つづつ再現していく」という今回の趣旨に最も強く合致したのが、この本でした。
何度も転生を繰り返した魔術師の魂を宿したエルフが、幼馴染の少女シリルとともに、帝国に搾取される小さな村を救い、理想の国を作り上げていく話です。絶望に抗い続ける主人公と、しっかりとした技術知識に基づいた物語が素敵でした。
主人公が物語序盤で作り上げるクロスボウは、鋼鉄でできたリムに木の土台、そして鉄のボルト*12と、中世後期に出現した金属製のクロスボウをそのまま模したような武器なのですが、弦の部分だけ魔術で作ったカーボンファイバーが使われていたりして、おちゃめなロマンがあります。
[*12] クロスボウで用いられる矢のこと
「小説家になろう」で現在も公開中、文庫版は5巻完結です。
こちらも異世界もののラノベ、おおむねタイトル通りの内容です。ロボコンの本番1週間前に泊りがけで調整をしていた高専のロボコンチームが、メンバーまるごと異世界に飛ばされてしまう、という話です。
こちらも異世界と技術の融和を図ったという点で、とても親近感を覚える意欲作です。理系、特にエンジニア特有のあるあるネタが多く含まれており、そういった職業に近しい人が読むと非常に楽しめる作品になっています。
ちなみに、高専出身の若干名の知り合いとこの作品について談義を交わしたところ、少なからず一致した意見は「高専にあんなタイプの女の子はいない」でした。
中世ヨーロッパの科学技術について多くの文献をあたりましたが、そのものズバリ中世の技術について詳しく書いてあった書籍は、ほとんどこれだけでした。
文庫本ですが、中世初期から後期に至るまでの技術の進歩の流れと、各技術分野ごとの詳細な情報が綺麗にまとまっており、非常に満足度の高い一冊です。(この記事と違って)図版が多いこともおすすめポイントの一つです。
図書館で出会った古い本ですが、とても役に立ちました。中世の中でも、カロリング朝ルネサンスの時期にフォーカスを当てて、文化や制度を詳述した本です。通読するのには向いていませんが、中世の風俗について知りたいときに辞書のように使うことができます。
非常に数少ない、チャールズ・バベッジの伝記です。
今回の記事ではバベッジについてあまり詳しく述べませんでしたが、彼が設計した装置は、やはり時代を100年先取りした代物であり、バベッジの考え方や生き方がよく表れた彼の「作品」でした。「コンピューターの父」と高らかに称せられる一方で、ブラックボックスとされがちな階差機関や解析機関について、ちゃんと知りたい方にオススメします。
記事中で、「物好きな有志によって現代でもリレー式コンピューターが製作されることがある」と述べましたが、そんな中でも特に精力的に作られているのがこの「リレー式電卓」です。
これは電卓なので厳密にはここでいうコンピューターとは違いますが、計算装置としてしっかりと動作しており、製作者の熱い情熱が感じられる魂の装置です。
Webで詳細な製作レポートが公開されている*13ので、ぜひ読んでみてください。数式を入力するとリレーのカチャカチャという音が響き、結果が7セグに表示される様子は感動モノです。